「1番センター中利夫」「1番セカンド荒木」「1番センター大島」――。
中日ドラゴンズの歴史を振り返ると、時代ごとに“チームの顔”となる1番打者がいた。
1936年の名古屋軍から2026年現在まで、1番打者を務めた選手は全171人。
創世期・黄金期・暗黒期・そして「666」の時代まで、90年分のリードオフマンを振り返っていく。
長くなるので、目次から見たい時代へ飛ぶのもオススメです。
集計結果やポジション別の傾向だけ見たい方は、まとめからどうぞ。
1936〜1949|名古屋軍から“中日”へ、草創期の1番打者たち
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| No. | 名前 | 初1番日 | 所属時期 | ひとこと |
| 1 | 野村 実 [二] | 36/4/29 | 1936春夏 | 名古屋軍初代1番打者 |
| 2 | 桝 嘉一 [中] | 36/7/1 | 1936-44 | 最高出塁率(1938春)※当時は表彰ナシ |
| 3 | 中根 之 [右] | 36/10/4 | 1936 | プロ野球初代首位打者(1936) |
| 4 | 小阪 三郎 [二] | 36/11/19 | 1936秋-37・44 | 1試合3盗塁死(NPB最多タイ) |
| 5 | 志手 清彦 [右] | 37/4/2 | 1936秋-37 | 阪急軍からの移籍戦士 |
| 6 | 石丸 藤吉 [二] | 37/6/9 | 1937-43 | 弟は名古屋軍でノーノ―達成投手 |
| 7 | 石田 政良 [左] | 37/9/22 | 1937-43 | 盗塁王(1940) |
| 8 | 村瀬 一三 [遊] | 38/5/14 | 1938-41途 | 1リーグ制唯一の新人開幕戦本塁打 |
| 9 | 戒能 朶一 [二] | 38/8/29 | 1938秋-40 | 38秋不動の1番打者 |
| 10 | 鈴木 秀雄 [左] | 39/3/31 | 1936-39途・44・46 | 3球団所属のスイッチヒッター |
| 11 | 高木 茂 [右] | 40/3/15 | 1937・39途-40 | 晩年カープで現役復帰 |
| 12 | 岩本 章 [左] | 40/10/8 | 1939-44・46-47 | 本塁打王(1943) |
| 13 | 本田 親喜 [左] | 41/4/3 | 1940-42 | ハワイ出身の選手兼任監督 |
| 14 | 木村 進一 [二] | 41/4/22 | 1939-42 | 戦時中に右手首を失い引退 |
| 15 | 牧 常一 [左] | 41/7/16 | 1939-41 | スタメン4試合中2試合で1番 |
| 16 | 金山 次郎 [左] | 43/7/24 | 1943-44・46-47 | 本塁打王1回・盗塁王3回 水爆打線の1番打者 |
| 17 | 藤野 義登 [捕] | 44/7/1 | 1944・46 | 初めての1番キャッチャー |
| 18 | 古川 清蔵 [中] | 46/5/19 | 1941-43・46-47 | 本塁打王2回 1試合7安打(NPB最多タイ) |
| 19 | 杉浦 清 [遊] | 46/9/20 | 1946-50 | 監督も務めた名ショート |
| 20 | 笠石 徳五郎 [左] | 47/6/2 | 1946-48 | 阪急・西鉄にも在籍 |
| 21 | 杉江 文二 [左] | 47/6/30 | 1947-48 | 俊足自慢の外野手 |
| 22 | 山本 尚敏 [三] | 47/7/20 | 1946-48 | サヨナラ本盗も決めた代走要員 |
| 23 | 古川 忠道 [右] | 48/4/25 | 1948 | 出場5試合中3試合で1番 |
| 24 | 山本 静雄 [二] | 48/4/29 | 1948-49 | 中日2年・近鉄8年在籍 |
| 25 | 原田 徳光 [中] | 48/5/13 | 1948-58 | 晩年は原田督三の名前で活躍 |
| 26 | 坪内 道典 [中] | 49/4/2 | 1949-51 | NPB初の1000試合出場・1000本安打 |
戦火の時代を走った、名古屋軍のリードオフマン
現代野球と比べれば、戦前プロ野球は環境も競技水準も大きく異なる。
それでも、中日の前身・名古屋軍で1番を任された選手たちは、日本プロ野球草創期の最前線を走った存在だった。
1936年にプロ野球が始まって以来、桝嘉一・石田政良・村瀬一三が1番打者を務めることが多かったようだ。
1938年秋のみ、戒能朶一がシーズン全試合でリードオフマンに。
また、1941年後半からは石丸藤吉が主に1番打者を任されている。
彼の弟である石丸進一は、投手として大活躍。
神風特攻隊として戦死し、沢村栄治らとともに、鎮魂の碑に名前が刻まれている。
終戦前最後のシーズンとなる1944年は、金山次郎がブレイクを果たす。
2リーグ制になった1950年、松竹ロビンスに入団すると、小鶴誠や三村勲とともに、強力な水爆打線を形成。
最強打線のリードオフマンとなり、当時史上初となる400盗塁まで達成している。
戦前〜戦中の名古屋軍でも、1番打者は外野手や二塁手が中心。
捕手として1番を務めたのは、情報があまり残っていない藤野義登のみだった。
終戦直後、“中日”誕生前後の1番打者たち
1945年は戦争のため、プロ野球は開催されなかった。
翌1946年にリーグ戦が再開。
名古屋軍も「中部日本」として復活し、1947年からは現在につながる「中日」名義の球団となっていく。
1946〜47年は、俊足の外野手・岩本章が主に1番打者を務めた。
巨人、中日、阪急、広島と4球団を渡り歩いた選手だが、1943年には本塁打王も獲得している。
しかし、1947年の中盤からスタメンでの起用がめっきり減り、オーダーを固定できない時期が続く。
1948年後半になると、サイクルヒット達成者として知られる原田徳光が1番に定着し始める。
1リーグ制最後の1949年には、原田が2番へ回り、坪内道典が全試合で1番打者を担当。
野球殿堂入りも果たした名選手であり、原田に続いて「1番センター」の系譜を作る存在となった。

1950–1960|“1番センター中”が定着
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| No. | 名前 | 初1番日 | 所属時期 | ひとこと |
| 27 | 加藤 進 [中] | 50/5/18 | 1949-57 | 1試合のみ |
| 28 | 松本 和雄 [遊] | 50/6/30 | 1950-52 | 1試合のみ |
| 29 | 鈴木 隆 [中] | 52/3/20 | 1949-1952 | この年に引退 |
| 30 | 山崎 善平 [中] | 52/4/6 | 1951-57 | 1試合6盗塁(NPB最多タイ) |
| 31 | 牧野 茂 [遊] | 52/4/27 | 1952-59 | 川上哲治に認められた名コーチ |
| 32 | 本多 逸郎 [中] | 53/3/28 | 1950-61・64途-65 | 盗塁王獲得の二枚目外野手 |
| 33 | 国枝 利通 [二] | 53/4/5 | 1948-54 | ナゴヤドームの取締を歴任 |
| 34 | 木下 貞一 [右] | 53/5/2 | 1953-54 | 投手入団の苦労人 |
| 35 | 井上 登 [二] | 54/8/29 | 1953-61・67 | ベストナイン5回の中距離打者 |
| 36 | 伊藤 庄七 [右] | 55/4/23 | 1955 | 2試合のみ |
| 37 | 服部 受弘 [中] | 55/8/20 | 1939-41・46-58 | 本塁打王1回の永久欠番 |
| 38 | 中 利夫 [中] | 55/9/24 | 1955-72 | 首位打者獲得の核弾頭 |
| 39 | 岡嶋 博治 [三] | 57/9/15 | 1954途-60 | 盗塁王2回の俊足サード |
| 40 | 横山 昌弘 [左] | 59/6/7 | 1959-61 | 2試合のみ |
| 41 | 会田 豊彦 [三] | 60/4/19 | 1960-64 | 打撃に苦しみ5年で引退 |
| 42 | 法元 英明 [左] | 60/9/23 | 1956-68 | 引退後は有名スカウト |
俊足巧打の「リードオフマン」誕生
2リーグ制となった1950年、そして1951年も坪内道典が1番センターでチームを引っ張り続ける。
しかしその年限りで坪内は引退となり、1952年からは監督を務めることとなった。
開幕戦で1番センターに抜擢されたのは鈴木隆。
坪内が自身の後釜として期待していたと思われるが、目立った成績を残すことができず、この年限りで引退となっている。
代わって1番を打つ機会が増え始めたのが牧野茂。
打撃が不得意ながら守備の名手として知られ、野球殿堂入りも果たした選手だ。
現役時代は中日一筋だったが、川上哲治の名参謀となり、巨人V9の立役者の1人となっている。
国枝・木下らが起用されることもあったが、完全に1番打者の座をつかんだのは本多逸郎。
14年間も中日に在籍したイケメン外野手は、1955年に盗塁王も獲得している。
その本多をファーストへ追いやる形で1番に定着したのが、1955年入団の中利夫。
監督も務めた名選手であり、ドラゴンズファンならば絶対に名前を聞いたことがあるだろう。
ここから眼病を患う1968年までは、中が文字どおり中日ドラゴンズの顔となっている。
本多・中・山崎善平が中心となる一方、1957年後半〜1960年前半には岡嶋博治が「1番サード」として存在感を発揮。
四球を選び積極果敢に走るスタイルだったが、盗塁王2回に対して盗塁死王5回という豪快な選手でもあった。
しかし、1968年に目の病気を患うまでは、基本的に1番中という試合がもっとも多い。
球界全体で見ても、「1番センター」という王道イメージの形成に、一役買った選手だったのかもしれない。
中だけに。
1961–1973|2代目「ミスタードラゴンズ」高木守道
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| No. | 名前 | 初1番日 | 所属時期 | ひとこと |
| 43 | 河野 旭輝 [遊] | 61/5/31 | 1961-63 | 両リーグでの盗塁王獲得 |
| 44 | 高木 守道 [三] | 61/6/21 | 1960-80 | NPB史上最高のセカンド |
| 45 | 半田 春夫 [二] | 62/4/21 | 1962 | ビールかけの創始者 |
| 46 | 長谷川 繁雄 [中] | 62/8/1 | 1962 | 井上登との1対3トレード |
| 47 | 伊藤 竜彦 [右] | 62/9/27 | 1959-70 | 1000試合出場の外野手 |
| 48 | マーシャル [一] | 63/10/3 | 1963-65 | NPB初の現役メジャーリーガー |
| 49 | 一枝 修平 [二] | 64/9/13 | 1964-71 | 阪神のコーチとして日本一に貢献 |
| 50 | 前岡 勤也 [右] | 64/9/30 | 1961-64 | 引退試合で唯一の1番起用 |
| 51 | 島野 育夫 [中] | 65/8/26 | 1963-68途 | 星野仙一の名参謀 |
| 52 | 権藤 博 [三] | 65/10/9 | 1961-68 | 大投手がこの年野手転向 |
| 53 | 佐野 卓郎 [二] | 65/10/24 | 1964-66 | シーズン最終戦のみ |
| 54 | 広野 功 [二] | 67/7/16 | 1966-67・74 | 楽天の初代編成部長 |
| 55 | 菱川 章 [中] | 68/4/17 | 1965-72 | 4番打者を務めることも |
| 56 | 江島 巧 [中] | 68/4/19 | 1968-72 | 率は低いがパワーは凄い |
| 57 | 葛城 隆雄 [右] | 68/5/16 | 1964-69 | 3年連続失策王のスラッガー |
| 58 | 日野 茂 [遊] | 68/5/29 | 1968-72途 | 指導者として人気の高学歴 |
| 59 | 堀込 基明 [中] | 68/5/30 | 1968途-70 | 中の穴埋めで島野らとトレード入団 |
| 60 | 江藤 慎一 [左] | 68/6/24 | 1959-69 | 不動の4番がこの試合のみ1番 |
| 61 | 金 博昭 [左] | 68/10/15 | 1968-70 | シーズン最終戦に抜擢 |
| 62 | 島谷 金二 [三] | 69/5/11 | 1969-76 | 打撃も得意な守備の名手 |
| 63 | フォックス [一] | 69/7/16 | 1969 | テスト入団の助っ人 |
| 64 | 伊熊 博一 [右] | 69/10/21 | 1967-73 | シーズン最終戦に抜擢 |
| 65 | バビー [右] | 70/4/12 | 1970 | ドジャースでMLBデビュー |
| 66 | 谷沢 健一 [左] | 71/4/29 | 1970-86 | 2062安打の名球会選手 |
| 67 | 小泉 恒美 [右] | 71/6/22 | 1971 | 元祖「現役ドラフト」で入団 |
| 68 | 大島 康徳 [右] | 71/6/26 | 1969-87 | 2204安打の大スター |
| 69 | 江藤 省三 [二] | 71/10/8 | 1969-76 | 江藤慎一の弟が巨人から移籍 |
| 70 | 飯田 幸夫 [右] | 72/4/22 | 1972-78 | 後に代打の切り札として活躍 |
| 71 | 竹内 洋 [右] | 72/5/10 | 1965-73 | 1試合のみ |
| 72 | 西田 暢 [右] | 72/5/21 | 1970-75 | 長嶋茂雄の引退試合にも出場 |
| 73 | 坪井 新三郎 [三] | 72/8/17 | 1970-75 | 振り子打法・坪井智哉の父親 |
| 74 | 谷木 恭平 [右] | 73/4/18 | 1973-80 | 27歳の子持ちオールドルーキー |
| 75 | 井上 弘昭 [三] | 73/5/27 | 1973-80 | 最多安打1回の巧打者 |
| 76 | ウィリアム [中] | 73/8/30 | 1973-74 | 最多三振・盗塁死の粗削り助っ人 |
伝説の2代目「ミスタードラゴンズ」
中や岡嶋が主に1番を務める状況が続くが、1961年からは岡嶋との盗塁王トレードで中日に入団した河野旭輝がトップバッターとして起用されることも。
主に1番中・2番河野の打順で、チームを牽引し続けた。
そしてこの1961年、まだ若手だった高木守道が初めて1番で起用される。
この試合では三塁手としての出場だったが、後に中日を象徴する名二塁手となるレジェンドだ。
1963年の中盤からレギュラーをつかむと、中とともに1・2番コンビを組むようになった。
なんとなくタイプとして「2番セカンド」のイメージもあるが、実際には1番高木・2番中のスタメンも多かったようだ。
南海から移籍し、1962年の一年間だけ在籍していたのが、カールトン半田こと半田春夫。
優勝時のビールかけを発案したハワイ出身の選手だが、高木の代名詞でもある「バックトス」を伝授したというのだから、不思議な縁である。
初めて外国人選手として1番で起用されたのが、NPBで初めて現役メジャーリーガーとして来日したジム・マーシャルだ。
基本的には3番打者を務めていたが、巨人と優勝争いをしていた1963年の終盤に、3試合だけ1番を任されている。
シーズンの結果としては、惜しくも3勝差でリーグ優勝を逃がしてしまったのだが。
巨人V9!その背中を追ったドラゴンズ
高木が3番に座ることも増えた1965年終盤には、指導者としての手腕が評価されている島野育夫、実は野手転向して内野手を務めていた権藤博などが1番に抜擢されることもあった。
この1965年から1973年にかけては、読売ジャイアンツが9年連続で日本一に輝いた、いわゆる「V9時代」である。
その間、2位になったチームは阪神が5回、そして中日が4回と、球界の盟主に独走を許してしまっている。
とは言いながらも、その9年間で2位4回・3位2回とまずまずの結果を残している中日。
1969年からは3番に座ることが増えた中に代わって、一枝修平や島谷金二、そして高木らが1番に座る。
1970年には、開幕戦からジム・バビーが1番に抜擢。
ドジャースでMLBデビューを果たしているだけに、期待も大きかった助っ人だが、打率.188と期待外れの成績に終わってしまった。
結局この年は中が1番に戻ることも増え、チームの改革がうまくいかなかった形と言えるだろう。
1971年は、後の名球会入りを果たす大打者2名が、1番打者に初めて座った。
前年新人王を獲得した谷沢健一と、投手としてテスト入団しながらこの年野手転向をした大島康徳だ。
谷沢・大島・高木に加え、キャッチャーで中軸を打つ木俣達彦など、現代のファンでも名前をよく聞く名プレイヤー達がチームに揃い始めてきている。
1971年は2位、翌年からは2年連続3位と、着々とチームづくりを進め、巨人への反撃を今か今かと待っていた。

1974–1986|田尾・平野へ受け継がれた「1番センター」
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| No. | 名前 | 初1番日 | 所属時期 | ひとこと |
| 77 | 藤波 行雄 [左] | 74/6/23 | 1974-87 | この年新人王獲得 |
| 78 | ローン [中] | 75/4/18 | 1975-76途 | 強肩武器のメジャーリーガー |
| 79 | 関東 孝雄 [二] | 76/10/19 | 1976-81 | 関東だけど出身は宮城県 |
| 80 | デービス [中] | 77/4/19 | 1977 | MLB2547安打397盗塁の黒豹 |
| 81 | 森本 潔 [二] | 77/6/7 | 1977-79 | 4対3の大型トレードで入団 |
| 82 | 田尾 安志 [中] | 77/8/6 | 1976-84 | 3年連続最多安打の安打製造機 |
| 83 | 田野倉 利男 [遊] | 78/9/27 | 1973-84 | 内野のユーティリティ |
| 84 | 宇野 勝 [二] | 78/10/6 | 1977-92 | NPB唯一遊撃手の本塁打王 |
| 85 | 石井 昭男 [右] | 80/4/6 | 1978-87 | 卓越した打撃理論 |
| 86 | 豊田 誠佑 [右] | 80/7/12 | 1979-88 | ドラフト外入団の江川キラー |
| 87 | コージ [左] | 81/5/21 | 1981 | 在籍1年のみ |
| 88 | 富田 勝 [二] | 81/5/31 | 1981-82 | 法政三羽ガラスの晩年 |
| 89 | 平野 謙 [中] | 81/7/20 | 1978-87 | ゴールデングラブ9回の名手 |
| 90 | 上川 誠二 [二] | 83/5/22 | 1982-86 | 中日・ロッテで活躍 |
| 91 | 島田 芳明 [左] | 85/6/3 | 1980-87 | 超俊足の代走要員 |
| 92 | 川又 米利 [右] | 85/6/7 | 1979-97 | チャンテが有名な代打の切り札 |
| 93 | 藤王 康晴 [三] | 86/10/4 | 1984-89 | 地元出身の未完の大器 |
悲願のV10阻止!意外な外国人リードオフマンの歴史
主に高木が1番打者を務めた1974年。
谷沢・マーチン・木俣・大島・井上らを軸とした強力打線により、巨人のV10を阻止する20年ぶり2度目のリーグ優勝。
2位の巨人とは、ゲーム差ナシの勝率.001差。
まさに紙一重の戦いで、長嶋茂雄の引退年に有終の美を飾らせる筋書きを阻止したのだった。
中が引退してから外国人選手に頼っていたセンターだが、1975年にはMLBで6年間活躍した実績を持つローンが来日。
翌年途中に右手腱鞘炎で退団してしまったものの、ダイヤモンドグラブ賞(現在のゴールデングラブ)を獲得するなど、シーズン2位という好成績にも貢献してくれた。
ローン帰国後は、高木と谷木の2人が1番としてチームを引っ張ることが多かったが、意外とメジャーリーガーを連れてくることが多いこの頃の中日。
1977年に来日したのは、MLB通算2547安打・397盗塁という輝かしい成績を残しているウィリー・デービスだ。
チーム内での不和も多く、この年限りでクラウンへ移籍してしまったが、晩年ながら.306 25本塁打を記録しているのだから流石である。
最近のドラゴンズに入団する助っ人は、比較的大人しい印象もある。
ただ、この頃は本当に「気性の激しいメジャーリーガー」が来日していたのだから面白い。
ファンからも愛された「安打製造機」
藤波や谷木、そして後にショートを守りながら本塁打王を獲得する宇野勝などが1番を打つものの、なかなかチームの顔として定着しない。
しかし、高木が引退する1980年に1番打者としての地位をつかんだのが、田尾安志だ。
前年初めての規定打席をクリアした田尾は、この年打率.299をマーク。
1981年に打率3割を超えると、1982年からは3年連続最多安打と完全にスターの階段を上っていく。
ちなみにこの1982年は、伝説の「5打席連続敬遠」という事件が起きている。
シーズン最終戦を前に打率.350と好調の田尾だったが、大洋の長崎啓二が.351とわずかに上回っていた。
その最終戦は、神様のイタズラなのか「中日VS大洋」というカード。
長崎は欠場し、5打席とも敬遠されてしまった田尾は、初めての首位打者を逃がしてしまうのだった。
この頃はまだ最多安打がタイトルとして表彰されていなかったため、念願の打撃タイトル獲得を逃がすのは悔しかったのだろう。
最終5打席目では、敬遠のボールを2度空振りし、勝負しなかった大洋に対して抗議をしている。
しかし皮肉なことに、その最終戦は中日の優勝がかかった一戦でもあった。
巨人とゲーム差ナシで並んでいた中日は、田尾の”5出塁”をしっかり活用。
最後の最後でリーグ優勝を飾っている。
勝敗を度外視した大洋に批判が相次いだことは、言うまでもないだろう。
継承される「1番センター」
1985年、チームの顔となっていた田尾が1対2トレードで西武へ移籍する。
チームのスターを放出するという一大事に、中日ファンもトレード撤回を求める署名活動を起こしたが、もちろん変わらず。
ただ、すでに1番センターの後継者は育っていた。
それがNPB屈指の強肩と俊足で知られる、平野謙である。
その年は主に1・2番を務めて初めての打率3割をマークすると、翌年には盗塁王を獲得するなど、新たなリードオフマンの誕生にファンは歓喜した。
1986年は、126試合(全130試合)で1番センターを任される。
翌1987年は2番を打つことも増え、得意なバントの数も増加。
しかしその結果、つなぎ役を求めた西武にまたしてもトレードで移籍してしまうのだった。
1987–1996|星野ドラゴンズの象徴、3代目「ミスタードラゴンズ」
1987〜1996年の1番打者一覧を見る(タップ)
| No. | 名前 | 初1番日 | 所属時期 | ひとこと |
| 94 | 彦野 利勝 [中] | 87/4/17 | 1983-98 | 長打も打てる1番センター |
| 95 | 小松崎 善久 [右] | 87/4/25 | 1980-89・91 | 星野チルドレンの乱闘要員 |
| 96 | 仁村 徹 [二] | 87/8/1 | 1984-95 | 指導者として評価も高い仁村弟 |
| 97 | 音 重鎮 [中] | 88/4/12 | 1988-90・96-99 | 実家は寺院のゴールデングラブ |
| 98 | 中尾 孝義 [左] | 88/5/8 | 1981-88 | 外野転向のMVP捕手 |
| 99 | 立浪 和義 [遊] | 88/10/16 | 1988-09 | 2480安打のミスタードラゴンズ |
| 100 | 山口 幸司 [中] | 89/10/10 | 1989-99 | 期待されていた高卒新人 |
| 101 | 小森 哲也 [二] | 90/4/25 | 1986-97 | 「10.8決戦」最後の打者 |
| 102 | ディスティファーノ [中] | 90/5/16 | 1990-90途 | MLB最後の左投げ捕手経験者 |
| 103 | 北村 照文 [中] | 90/5/20 | 1990途-92 | センターゴロ記録の超強肩 |
| 104 | 仁村 薫 [中] | 90/9/18 | 1988-90 | 巨人戦力外の仁村兄 |
| 105 | 種田 仁 [二] | 91/10/15 | 1990-01 | みんな大好きガニマタ打法 |
| 106 | 清水 雅治 [中] | 92/4/4 | 1989-95 | 「10.8決戦」でも1番起用 |
| 107 | パウエル [左] | 92/5/27 | 1992途-97 | 3年連続首位打者の最強助っ人 |
| 108 | 前原 博之 [三] | 92/7/8 | 1986-95 | この年オールスター出場 |
| 109 | 長嶋 清幸 [右] | 92/8/6 | 1991-92 | NPB初めての背番号0 |
| 110 | 山本 保司 [遊] | 92/10/6 | 1991-95 | 3対3トレードでロッテへ |
| 111 | 松井 達徳 [右] | 93/10/3 | 1990-97 | 守備難の左打ち |
| 112 | ジェームズ [左] | 94/7/27 | 1994 | 規定打席に「1」足りず |
| 113 | ホール [左] | 95/4/19 | 1995 | 後に禁錮45年の素行不良 |
| 114 | 鳥越 裕介 [遊] | 95/5/28 | 1994-99途 | 189cmの守備職人 |
| 115 | 神野 純一 [遊] | 95/7/18 | 1993-03 | 通算12本も1試合3本塁打経験 |
| 116 | 北村 俊介 [二] | 95/10/2 | 1988-96途 | テスト入団も出場機会なく |
| 117 | コールズ [三] | 96/4/5 | 1996 | 打棒炸裂も20失策では |
| 118 | 益田 大介 [中] | 96/7/14 | 1996-01途 | 後の楽天初期メンバー |
| 119 | 矢野 輝弘 [中] | 96/10/6 | 1991-97 | 阪神の正捕手として開花 |
闘将によるチーム立て直し
2年連続5位に沈んだチームを立て直すため、1987年には”闘将”こと星野仙一がついに監督となる。
早速抜擢されたのが、高卒5年目の彦野利勝だ。
平野に代わってスタメン出場の機会を増やし、「長打も打てる」1番打者として、まさに核弾頭の活躍を見せた。
後年は靭帯断裂からのカムバック賞獲得など、中日一筋でファンからも愛された選手である。
この年はほかにも、いぶし銀の仁村徹、ドラフト1位左腕の近藤真一らが台頭。
世紀の「1対4トレード」で獲得した落合博満が4番に座り、リーグ2位まで浮上している。
スター街道を突き進む3代目「ミスタードラゴンズ」
翌1988年、序盤はルーキーの音重鎮や、投手コーチとの軋轢によってまさかの外野手転向となった中尾孝義などが1番を務める。
しかし、この年から星野野球の”象徴”となったのが、高卒ルーキーながらショートでスタメンを張る立浪和義だ。
現代のファンでも知るスターは、PL学園で甲子園春夏連覇の実績を引っさげ、南海との競合の末に中日ドラゴンズへ。
1年目は打率.223、10失策と苦しんだ部分はあるものの、6年ぶりのリーグ制覇に大きく貢献した。
主に2番を任されることが多かった立浪だが、優勝が決まった後のシーズン最終戦、ダブルヘッダーの2試合目で初めて1番を打っている。
また、この年の序盤には「8番投手・9番立浪」が6試合もある。
おそらくNPBの歴史において、「9番を経験した選手で、もっとも通算安打数が多い選手」なのではないだろうか。
立浪がケガで30試合の出場に留まった1989年は、そのまま彦野が1番打者。
1990年の途中からは、立浪がリードオフマンを任されるのが基本となった。
翌1991年は、欠場した最終戦以外すべてで1番を打っており、「1番ショート立浪」はチームの顔と言って良いだろう。
それにしても、立浪が「ドラゴンズ99代目の1番打者」というのは驚いた。
あと1人でも、違う人が任されていればどこか運命的だったのに。
(数え間違えていたらむしろうれしいな)
目立つ外国人起用
1992年、セカンドにコンバートした立浪は、キャンプで負傷し出遅れてしまう。
そこで開幕戦から「1番センター」に抜擢されたのが、前年ファームで盗塁王を獲得した清水雅治だ。
WBCでも栗山監督のもとで世界一に貢献するなど、引退後のコーチとしての印象が強い人も多いだろう。
清水は72試合で1番を務め、.229 14盗塁(114試合出場)を記録。
初めてのスタメン起用ということを考えるとまずまずの成績ではあるが、残念ながらチームは前年の2位から12年ぶりの最下位に転落してしまった。
借金10と大きく負け越したわけではないが、星野から高木に監督が代わった初年度ということで、うまくチームが回っていなかったようである。
また、後に3年連続首位打者という輝かしい成績を残す、アロンゾ・パウエルがこの年に入団。
主に3番打者を務めたが、年に数回は1番としても出場している。
1993年は、復帰した立浪と種田仁が1・2番かつ二遊間コンビとして出場を続ける。
球団の顔とも言える宇野をトレードで放出したものの、今中慎二・山本昌の二枚看板など若い力の台頭で2位にまで浮上した。
1994年にはMLBドラフト1巡目(全体25番目)のディオン・ジェームズ、1995年にはロッテから移籍した素行不良のメル・ホールと、俊足巧打タイプではない外国人を1番に据えることも散見される。
現代の野球に近い考えで、やや最先端をいっていた球団なのかもしれない。
なお、ホールは後年、わいせつ罪で禁錮45年の刑に処されている。(え?)
1996年は、開幕戦からダネル・コールズが1番サードで出場を続ける。
MLBドラフト1巡目(全体6番目)、13年のキャリアを引っさげて来日し、主に1番打者ながら.302 29本 79打点という好成績を残した。
ただ、前年5位からの2位浮上に一役買ったのは間違いないが、20失策の守備がネック。
翌年から広いナゴヤドームに移転することもあり、この年限りの契約となり、MLBへ戻るのだった。
ちなみに、有名な「神のお告げ」と称してグリーンウェルが帰国した際に、慌てて阪神が獲得した3人のうち1人が、このコールズである。
グリーンウェルの話が出たときに、『急いで3人獲ったけれど、コールズ以外は完全にダメでしたね』と返すと、詳しい感じを演出できるのでオススメです。
未来の正捕手を放出
1996年の終盤からは、大卒ルーキーの益田大介が台頭。
また、阪神の正捕手として知られる矢野輝弘(現:燿大)も、なんとこの年の終盤に「1番センター」を経験している。
本職の捕手としても出場機会はあったが、中村武志という正捕手の壁は厚く、この年から本格的に外野にも挑戦していたのだ。
「ナゴヤ球場の公式戦最後となるホームラン」もこの試合で放つなど、シーズン7本塁打の活躍。
後に2対2のトレードで阪神へ移籍するが、中日の将来を担う正捕手候補の一人だったことは間違いない。

1997–2003|「黄金期」前夜、集い始める未来のレジェンド
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| No. | 名前 | 初1番日 | 所属時期 | ひとこと |
| 120 | 大西 崇之 [中] | 97/6/14 | 1995-05 | 「伏竜は奇跡を呼んだか」 |
| 121 | 荒木 雅博 [中] | 97/9/17 | 1996-18 | ドラゴンズの1番といえばこの男 |
| 122 | 李 鍾範 [遊] | 98/4/3 | 1998-01途 | 現MLBイ・ジョンフの父 |
| 123 | 関川 浩一 [中] | 98/6/24 | 1998-04 | 魂のヘッドスライディング |
| 124 | 福留 孝介 [遊] | 99/6/2 | 1999-07・21-22 | ドラゴンズ史上最高の野手 |
| 125 | 井端 弘和 [遊] | 00/7/29 | 1998-13 | 「2番の三冠王」は日本代表監督 |
| 126 | 波留 敏夫 [中] | 00/5/30 | 2001途-02 | マシンガン打線の2番打者 |
| 127 | 森野 将彦 [二] | 00/10/6 | 1997-17 | どこでも守るミスター3ラン |
| 128 | 森 章剛 [右] | 00/10/9 | 1998-05 | 登録名は「ショーゴー」 |
| 129 | ブレット [左] | 02/8/18 | 2002 | T.ウッズの代わりに獲得 |
| 130 | アレックス [中] | 03/5/7 | 2003-06 | 衝撃の強肩「サンダービーム」 |
「一番 J・リー 塁に出て」
1997年には、益田が「1番センター」を定位置にし、リーグ最多の三塁打8本を記録するなど、初めての規定打席に到達する活躍を見せた。
しかし、ナゴヤドーム元年でまさかの最下位に沈んだこともあり、星野ドラゴンズは血の入れ替えを行う。
翌1998年からは、矢野とのトレードで阪神から移籍してきた関川浩一がレギュラーの座を奪う。
一塁へのヘッドスライディングや、口髭がトレードマークで、筆者が幼少期に初めて好きになったプロ野球選手である。
矢野が阪神では捕手として出場機会を確保するのに対し、関川は捕手から完全に外野手へ転向してレギュラーをつかんだのは面白い。
そして、その年の開幕戦からは、韓国のスター李鍾範が1番打者として起用される。
当初はショートを守っていたが、守備範囲の広さ故かエラーも多く、1番レフトが「韓国のイチロー」の定位置となった。
「2年連続の最下位」を予想する評論家が多い中で、新人王川上憲伸ら投手陣の活躍もあり、大魔神フィーバーの横浜に迫る2位でシーズンを終える。
歓喜の瞬間は近い。
元「7球団競合ルーキー」とつかんだ優勝
1999年、前年の川上に続き、「逆指名」で黄金ルーキーを獲得することに成功する。
その選手こそが、高校時代は7球団競合で近鉄入りを拒否し、日本生命で力を磨いていた福留孝介だ。
ドラゴンズ史上最高の「3番ライト」というイメージが強い福留だが、この年は「2番ショート」での起用がほとんど。
「燃えよドラゴンズ!’99」でも、『一番 J・リー 塁に出て、二番 福留 ヒットエンドラン、三番 関川 タイムリー』と唄われている。
この年はその3人が、打順を入れ替えながらも上位打線を形成。
レオ・ゴメス・立浪・山﨑武司・井上一樹といった中軸が、しっかりランナーを返す”強竜打線”となっていた。
81勝54敗、勝率は6割と、圧倒的な強さでのリーグ優勝。
日本シリーズは山﨑の負傷欠場や関川の絶不調などが響きダイエーに敗れたが、見ていて非常にワクワクするチームだった。
最強コンビ・アライバの結成
2000年になってからは、関川や李、種田といった選手が数試合おきに起用され、1番打者が固定できない状況が続く。
そんなこの年の中盤から出場機会を増やしたのが、井端弘和だ。
堅実な守備で信頼をつかんでいくと、規定未到達ながら3割をマーク。
2001年には、1番としての起用も増え始めた。
そして、この年の夏には荒木雅博がブレイク。
1997年にも1番打者を2試合経験しているが、翌年から3年間はスタメン起用がゼロ。
この期間は、仁村二軍監督のもとで徹底的に鍛えられていたのだ。
史上最も「泥臭いドラ1」だと思っているが、努力は実を結ぶということだろう。
知らない人はいない「アライバ」だが、1番荒木・2番井端が初めて揃ったのは2001年の7月10日。
この日を”アライバ記念日”と名付けよう。
ちなみに、このとき荒木はレフトを守っており、セカンドは立浪だった。
戦力揃うも優勝を逃がし続ける山田久志時代
星野から山田久志に監督が受け継がれた2002年。
井端が140試合中132試合で1番を打っており、「イバアラ」の形が大半。
福留が首位打者に輝いたものの、川上と朝倉健太がようやく2ケタ勝利に乗せる程度で、先発投手が揃わず3位に終わった。
2003年は、開幕戦から福留が1番を任される。
井端・荒木・福留の若き3人が、「ブルー・スリー」と呼ばれていた時代だ。
5月には、4番に据えていたはずのアレックス・オチョアや、大西・関川といったベテランを据えて結果を残すも、中軸にしたいはずの一塁手クルーズやリナレスが期待外れ。
カムバック賞に輝いた平井 正史が12勝6敗とチームを引っ張ったものの、前年2ケタ勝利の川上・朝倉の両輪が序盤から離脱してしまい、阪神に14.5ゲーム差の2位となった。
9月には、フロントとの不和もあり、山田監督が解任。
佐々木恭介監督代行が少し立て直したものの、いわゆる”外様”監督ではダメだという考えが固まった瞬間だったのだろう。

2004–2011|最強”オレ流”野球と黄金期到来
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| No. | 名前 | 初1番日 | 所属時期 | ひとこと |
| 131 | 渡邉 博幸 [一] | 04/5/15 | 1996-07 | 一家に一台頼れるナベさん |
| 132 | 澤井 道久 [二] | 05/5/15 | 2005-10 | ドラフト11位の俊足内野手 |
| 133 | 井上 一樹 [右] | 06/5/23 | 1990-09 | 選手会長ピンキー井上 |
| 134 | 英智 [中] | 06/5/27 | 1999-12 | 永遠の伝説となった守備職人 |
| 135 | 李 炳圭 [遊] | 07/6/24 | 2007-09 | KBO屈指の安打製造機 |
| 136 | 堂上剛裕 [左] | 07/8/7 | 2004-14 | フルスイング魅力の「ドニキ」 |
| 137 | 大島 洋平 [中] | 10/3/26 | 2010- | 最多安打2回のヒットメーカー |
| 138 | 松井 佑介 [中] | 10/3/28 | 2010-19途 | 東農大出身の「松外」 |
| 139 | 藤井 淳志 [中] | 10/3/30 | 2006-21 | スイッチヒッター・豊橋の星 |
| 140 | 野本 圭 [右] | 10/3/31 | 2009-18 | 落合・野村に選ばれた男 |
| 141 | 小池 正晃 [右] | 11/7/18 | 2008途-11 | 松坂世代の「コイケメン」 |
| 142 | 平田 良介 [中] | 11/7/28 | 2006-22 | 甲子園3HRの怪物がこの年開花 |
| 143 | 谷 哲也 [遊] | 11/10/20 | 2007-18 | 最終戦抜擢でプロ初安打 |
鉄壁のダイヤモンドで初年度優勝
2004年からは、”オレ流”こと落合博満が監督に就任する。
間違いなく、中日ドラゴンズ史に残る「黄金期」の始まりだ。
目立った補強をせず、『各自が10%の底上げをすれば優勝できる』と言い切った落合。
開幕してから26試合までは、1番ショート井端・2番セカンド荒木の布陣だったが、それ以降はおなじみの「アライバ」の順番に。
ともに全試合出場を果たし、荒木は.292 39盗塁、井端は.302 21盗塁と素晴らしい成績を残した。
この年はアライバだけでなく、投手の川上に外野のアレックス、さらには渡邉博幸・英智と6名がゴールデングラブ受賞を果たす。
また、捕手の谷繁も古田と2票差、三塁手の立浪も岩村に次ぐ2位。
外野手部門でも福留が赤星に迫る4位と、残りの3ポジションもすべて次点。
歴史的に見ても、圧倒的な守備力が売りのチームだったと言えるだろう。
くわえて、”守備の人”という認識の渡邉が.286 2本、英智が.269と、まずまずの打撃成績を残しているところも、貯金23の強いチームを象徴している。
ちなみに、5月の1試合のみ、渡邉が「1番ファースト」でスタメン出場している。
マーシャル・フォックスと外国人では数回あったが、日本人選手としては唯一のレアな試合を発見できた。
「1番荒木」がチームの象徴に
ご存知のとおり、これ以降は1番セカンド荒木が当たり前の布陣となる。
むしろ、そのイメージが強かったため、これまでの時代はコロコロ変わりすぎだったなという印象だ。
2004年は108/138試合(井端26・大西2・森野1・渡邉1)。
2005年は144/146試合(澤井1・福留1)。
2006年は97/146試合(森野25・英智13・井端10・井上1)。
合計349/430試合と、この3年間の荒木率(1番荒木の確率)は81.2%だった。
2007年は、「1番井端・2番荒木」に入れ替えるという方針が打ち出された。
前年は
1.荒木(二)
2.井端(遊)
3.福留(右)
4.ウッズ(一)
5.森野(三)
6.アレックス(中)
7.井上(左)
8.谷繁(捕)
という、ドラゴンズ史上最強との呼び声高い打線を組みながら、日本シリーズで敗退したことが心残りだったのだろうか。
または、得点圏打率がより高い井端を先に置きたかったのだろうか。
前年に初めて3割をマークした荒木だったが、2番では調子が上がらないのか二軍落ちも経験。
自身初となる盗塁王を獲得したが、打率.263と低調なシーズンとなってしまった。
基本的に落合監督の時代は、荒木がリードオフマンで、たまに井端と入れ替わる形が続く。
本当は荒木にしたいのだろうが、不調のときに仕方なく2番に下げていた印象である。
その中でも印象的なのが、2007年に来日した「ビョン様」「ビョン吉」こと李炳圭だ。
韓国のイチローとして来日したが、四球を選ばないのであまりに出塁率が低い。
結果的に3年間所属していたが、出塁率は3割を超えることが一度もなかった。
変なところで打ってくれるので、今になって振り返れば面白い選手だったのだが。
また、弟の直倫が入団した2007年、「ドニキ」こと堂上剛裕も1番打者を3試合経験している。
とにかくがむしゃらにフルスイングする姿は、応援していて甲斐のある選手だった。
未来を担う若手たちと”オレ流”後期
Aクラスを続けながらも優勝を3年間逃がし、マンネリ打破が求められていた2010年。
なんと「ショート荒木・セカンド井端」へのコンバートを打ち出した。(本来は2009年からの予定だったが井端の目の不調で延期)
荒木は結果的にエラーは多いものの打撃復調となったが、井端は下降してしまう。
この年は荒木が開幕に間に合わず、落合にしては珍しく若手選手を1番に抜擢。
前年に惜しくも規定打席3割を逃がした藤井淳志、大卒ルーキーの松井佑介、2球団競合ドラ1の野本圭が起用されている。
その中に含まれていたのが大島洋平だ。
後に2000本安打を達成するヒットメーカーだが、この時期に初めて1番打者を務めている。
荒木復帰後も大島は「2番センター」を任されることが多く、ルーキーながら104試合に出場し、ロッテとの大激戦となった日本シリーズでも活躍した。
そして落合最終年となる2011年。
ここでようやく花開き始めたのが平田良介である。
輝かしい大阪桐蔭での実績を引っさげて高校生ドラフト1位で入団し、プロ2年目にはダルビッシュから日本一を決める決勝打点の犠牲フライ。
だれもが期待した選手だったが、そこからは怪我や不振でまったく活躍できず。
背水の陣で臨んだ6年目のシーズンで、ついに結果を出し始めたのだ。
最終的に、落合はフロントとの関係性もあり、シーズン途中で解任が伝えられる異例の事態。
伝説の「1人ビールかけ」が誕生するなど、波乱のシーズンだったが、選手たちが奮起して大逆転優勝を果たしたのは素晴らしかった。
主力選手はまだ健在で、大島・平田が台頭し始めている。
監督8年間でリーグ優勝4回・日本一1回・2位3回・3位1回と、この「黄金期」はこれからも続くのだろう。

2012–2021|黄金期の終焉、そして暗黒時代へ
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| No. | 名前 | 初1番日 | 所属時期 | ひとこと |
| 144 | 岩﨑 達郎 [遊] | 13/9/24 | 2007-13途・17 | 守備に定評の「誰﨑」 |
| 145 | エルナンデス [二] | 14/6/1 | 2014-16 | 「3D」の1人 |
| 146 | 工藤 隆人 [中] | 14/7/15 | 2014-18 | 観客がホームランキャッチ妨害 |
| 147 | 遠藤 一星 [遊] | 15/7/1 | 2015-21 | 光り切れなかった一番星 |
| 148 | 亀澤 恭平 [二] | 16/6/29 | 2015-19 | ムードメーカーの「亀ヘッド」 |
| 149 | 京田 陽太 [遊] | 17/4/19 | 2017-22 | 華麗な守備の新人王 |
| 150 | 伊藤 康祐 [左] | 19/4/30 | 2018-23 | 中京大中京の俊足外野手 |
| 151 | 渡辺 勝 [左] | 19/5/1 | 2016-22 | 最後の一本足打法 |
| 152 | 溝脇 隼人 [二] | 19/5/19 | 2013-23 | 荒木に憧れた男 |
| 153 | 阿部 寿樹 [二] | 19/5/25 | 2016-22 | 帰ってきた「マスター」 |
| 154 | 井領 雅貴 [右] | 19/6/9 | 2015-21 | オープン戦に強い春男 |
| 155 | 武田 健吾 [右] | 20/7/23 | 2019途-21 | 外野守備は一級品 |
| 156 | 福田 永将 [左] | 20/7/30 | 2007-23 | 甲子園優勝の大砲 |
| 157 | 岡林 勇希 [左] | 20/8/2 | 2020- | タイトル多数の安打製造機 |
| 158 | 根尾 昂 [右] | 20/8/4 | 2019- | 投手転向で花開くか |
| 159 | 髙松 渡 [二] | 21/4/30 | 2018-23途 | 足の速さは球界随一 |
| 160 | 加藤 翔平 [左] | 21/7/4 | 2021途-24 | 両打ちの頼れる兄貴分 |
悪夢の始まり「第二次高木政権」
2012年からチームを率いたのは、高木守道。
開幕は1番荒木・2番大島の形だったが、中盤からは完全に大島が「1番センター」の座をつかみ、初めて盗塁王を獲得。
結果的に、高木政権の2年間は1番大島が大半であり、チームの顔だったと言える。
初年度は6月まで首位を守っていたものの、最終的には巨人に10.5ゲーム差をつけられて2位。
2013年はエース吉見の離脱、ブランコ・ソト・ソーサのDeNA移籍、ベテランの不振が重なり、2001年以来となるBクラスの4位に沈んでいる。
ファン離れを危惧した球団が掲げた「join us~ファンと共に~」というスローガンとは裏腹に、どんどん勝てなくなっていく。
“孤軍奮闘”の大島プロ
2014年から、谷繁元信が選手兼任監督となるが、顔ぶれは大きく変わらない。
基本的に1番大島なのは良いが、4番に座るのが平田や晩年の和田・森野では厳しいか。
塁に出る大島はいるが、還す役が足りず、これでは得点も伸びにくい。
山井大介と大野雄大が2ケタ勝つ奮闘を見せ、4位には粘っている。
2015年に輝きを放ったのが、遠藤一星。
ドラフト7位ルーキーながら、1番起用の17試合を含む、41試合に出場して打率.271の4本塁打。
3番としても起用されるなど期待も大きかったが、「即戦力外ドラフト」と揶揄された評判を覆すほどの活躍には至らなかった。
若松駿太が初めて2ケタ勝利を記録するも、残念ながら借金15の5位。
2016年も亀澤恭平やエルナンデスを1番に置き、2番大島という打線も散見されたが、あまり機能しなかった印象だ。
これまでなんとか回避していたが、1997年以来となる最下位に沈んでしまう。
“ミスターに次ぐ”新人王
前年途中からバトンを引き継いだ、森繫和監督のもとで迎えた2017年シーズン。
久しぶりに明るい話題と、新しい1番打者がやってきた。
それがドラフト2位ルーキーの京田陽太である。
長身を活かした華のあるショート守備で開幕スタメンをつかむと、課題と思われていた打撃でもヒットを量産。
1番打者としては113試合に出場し、大島を3番に回す打線が組まれるようになった。
ただ、ホームラン王のアレックス・ゲレーロを擁しながら、大野の7勝が最高と、先発投手が足りずに5位まで。
2018年は、前年終盤に死球の骨折で離脱していた大島が戻り、1番大島・2番京田が基本線となる。
平田に加え、ソイロ・アルモンテにダヤン・ビシエド、福田永将に高橋周平と、期待できる打者が並ぶ打線だった。
しかし、この年もオネルキ・ガルシア以外の先発がピリッとせず、いつもの投壊で借金15の5位になってしまう。
唯一のAクラス!光明は見えたのか
2019年に監督就任となったのは与田剛。
開幕1番は平田に任せるが、なかなか定着せず色んな選手を試している。
後に「お気に入り」と揶揄されるような、溝脇隼人や井領雅貴、ほかにもタイプは違いそうな阿部寿樹など、よく言えば色眼鏡で見ない起用をしていたか。
再び5位とはなったものの、借金は5と大きく離されていない。
新型コロナウイルスの影響により、120試合の短縮シーズンとなった2020年。
沢村賞を獲得した大野の奮闘もあり、ついに8年ぶりのAクラスとなる3位へと浮上した。
この年は、94試合で大島が1番打者に。
ただ、現在のリードオフマン岡林勇希や根尾昂の起用も見られる。
2021年も岡林は15試合、根尾は50試合も起用されており、チームの立て直しと若手育成の両立をしっかり考えてくれていた監督だったのではないか。
野手陣が軒並み不調で、柳裕也が投手二冠をとりながら5位に沈んでしまったのがもったいない。
シーズン後半には1番京田・2番岡林と、新しいチームの顔を作り上げようという意欲も感じられる。
「お前事件」や肩幅、井領の重用などで文句を言われていたが、失ってからその大切さを痛感してしまった。
2022–|伝説の「666」、終わらない”再建期”
2022〜の1番打者一覧を見る(タップ)
| No. | 名前 | 初1番日 | 所属時期 | ひとこと |
| 161 | 鵜飼 航丞 [右] | 22/4/30 | 2022- | 球界屈指のパワーと飛距離 |
| 162 | ビシエド [一] | 23/7/25 | 2016-24 | 愛された「エル・タンケ」 |
| 163 | 村松 開人 [二] | 23/7/29 | 2023- | ノーステップで成績向上 |
| 164 | 樋口 正修 [二] | 23/7/30 | 2023- | 外野挑戦で一軍定着なるか |
| 165 | ブライト 健太 [左] | 23/9/10 | 2022- | 悩めるドラフト1位 |
| 166 | 三好 大倫 [中] | 24/3/29 | 2021-24 | オープン戦で大活躍 |
| 167 | カリステ [左] | 24/3/31 | 2023- | 元々はショートとして来日 |
| 168 | 田中 幹也 [二] | 24/5/1 | 2023- | 大腸全摘出を乗り越えた忍者 |
| 169 | 福永 裕基 [左] | 24/5/6 | 2023- | ドラフト最下位指名の挑戦 |
| 170 | 板山 祐太郎 [二] | 24/7/15 | 2024- | 戦力外からの覚醒か |
| 171 | 上林 誠知 [右] | 25/5/28 | 2024- | 復活かける元日本代表 |
名選手は名監督にあらず
2022年、満を持して「ミスタードラゴンズ」立浪和義が監督に就任する。
前年の与田監督のオーダーを引き継ぎ、1番大島・2番岡林で開幕。
岡林は序盤で苦しみながらも夏場に復調すると、最終的には打率.291の好成績をマーク。
1番岡林・2番大島が基本の形となった。
よく『岡林は立浪監督が抜擢した』と言われるが、この年のオープン戦でも打率.316を記録しており、使わない監督はいないだろう。
前年の終盤からすでにスタメンの座をつかんでいたわけなので、あまり納得がいかない。
この年は借金9に抑えながらも、広島に0.5ゲーム差で競り負けてまさかの最下位。
143試合中26試合で完封負けを喫するなど、あまりにも得点力がないチームだった。
2023年は岡林と大島の打順がよく入れ替わる。
現役ドラフトで加入した細川成也の頑張りもむなしく、得点力不足は相も変わらず。
むしろビシエドや大島の成績が落ちてしまい、さらに絶望的な打線となる。
何を血迷ったか、7月には1番ビシエドという試合もあるくらいだった。
3割打者も2ケタ勝利投手もおらず、ヤクルトとゲーム差ナシの最下位に沈み、またもや勝負弱さを見せつけてくれた。
2024年は、久しぶりに開幕スタメンがガラッと入れ替わる。
岡林の負傷もあり、オープン戦で結果を残した三好大倫が「1番センター」の座をつかんだのだ。
しかし、目を見張る成績を残すことができず、1か月もしないうちに岡林が復帰。
なんと「開幕戦の1番打者がその年に戦力外」という、見たことがない結果に終わってしまった。
この年は試行錯誤が見え、村松開人が23試合、オルランド・カリステが16試合、三好も16試合、福永裕基が11試合と、1番打者の適性を探っているようだ。
三好以外、2026年の起用と何も変わらないようにも見えるな。
伝説の「666」達成となったこの年も、ヤクルトとゲーム差ナシの最下位。
わざとやっているのだろうか。
ハナ差・クビ差で負けることに関しては、立浪和義の右に出る者はいないのだ。
チーム再建へ、戦力は揃ったか
2025年からチームの指揮を執ったのは、井上一樹監督。
ドラフトで金丸夢斗のクジを引いたことからも、ファンの期待はひとしおだ。
開幕戦からもちろん岡林がリードオフマンを務めるが、3番岡林を気に入っているようにも感じられる。
そこで白羽の矢が立ったのは、ソフトバンクを戦力外になったところを拾われて2年目となる、上林誠知だ。
3番を打つことが多かったものの、岡林と打順を入れ替えながら起用されることもあり、7年ぶりの規定打席到達。
打率.270 17本塁打 27盗塁と、素晴らしい成績を残してくれた。
また、この年はブライト健太も好調。
外野の3枠が埋まっている中でも代打で結果を残し、6試合は1番ライトで先発出場している。
まずまずの打線を組めるようになったが、小笠原慎之介のMLB移籍や柳の不調により、先発投手が足りない。
『中日は投手が良いから野手さえ何とかなれば』という、エセ解説者が目立つようになってくる。
まとめ
「中日ドラゴンズの1番打者は今後どうなるのか」
2026年シーズンは、例年以上に1番打者を固定できていない。
岡林が7試合で離脱してしまったこともあるが、開幕戦から1番カリステを起用するなど、「もっとも打席が回る打順」ということを考慮していないように見える。
何度「スタメンの1番打者に代打」という、本来ありえないシーンが発生しただろうか。
2026年に1番打者として起用された選手をまとめてみよう。
5月末までの48試合終了時点で
- 大島 … 14試合(阿部2・カリステ1)
- カリステ … 10試合(板山3)
- 福永 … 9試合
- 村松 … 7試合
- 鵜飼 … 5試合(龍空1)
- ブライト … 2試合(高橋1・阿部1)
- 田中 … 1試合
※( )内は代打として起用された選手、調べたら9/48試合もあった。
と、まったく固定できていない状況だ。
執筆時点では、村松が1番打者に固定され始め、よくチームを引っ張ってくれている。
ただ、守備負担の大きいショートというポジションを考えると、長期的に任せるのは危険だろう。
はやく戻ってこい、岡林。
「1番打者に抜擢されるのはどのポジションの選手が多いのか」
| ポジション | 人数 | 割合 |
|---|---|---|
| 中堅手 | 45 | 26.3% |
| 二塁手 | 34 | 19.9% |
| 右翼手 | 30 | 17.5% |
| 左翼手 | 27 | 15.8% |
| 遊撃手 | 20 | 11.7% |
| 三塁手 | 12 | 7.0% |
| 一塁手 | 4 | 2.3% |
| 捕手 | 1 | 0.6% |
初めて1番を打ったときのポジションなので、まったく正確な数字ではないことは前提。(高木守道がサードなど)
ただ、やはり「センターを守るだけの脚力がある」ような選手は、使ってもらいやすいのだろう。
どうやら、ドラゴンズで1番打者としてデビューしたいなら、打力以上に脚力を磨いた方が良さそうだ。
見てますか、プロを目指す全国の球児たち。
実際に「1番センター」でスタメンをつかんだ選手は多く、中利夫から始まり、田尾安志・平野謙と名選手が続く。
星野政権になっても、彦野利勝や関川浩一。
そして現代の大島洋平や岡林勇希と、やはり「1番センター」=チームの顔と言っても良いだろう。
続いて多いのは「1番セカンド」。
高木守道に荒木雅博と、ドラゴンズを長年引っ張ったレジェンドたちがいるからか、やはり印象深い。
一方で「1番ショート」は思ったほど王道ではないか。
立浪和義・京田陽太に続いて、村松開人が新たなリードオフマンに定着するのを楽しみにしたい。
当たり前だが、キャッチャーが一番少なく、ファーストも外国人助っ人がほとんど。
打力に期待する選手は、やはり中軸に置くのだろう。
セ・リーグも2027年からDH制が導入される。
ドラゴンズにも、大谷翔平のように「1番DH」の大スターが現れてほしいものだ。
おわりでーす



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